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古方派の泰斗 後藤艮山(ごとうこんざん) 小太郎漢方新聞

江戸時代中期の医学者。江戸に生まれ、若くして儒教や医学を学び、京都において独学で医学の識見を深め、名古屋玄医に次ぐ古方派の先駆けとなりました。古方派の復古主義、経験主義的な漢方の流派として、その後の医学に大きな影響を及ぼしました。また、艮山には「湯熊灸庵(ゆのくまきゅうあん)」という俗称があり、これは温泉、熊胆、灸による治療を多用したことによります。艮山独自の医論「一気留滞説」は、すべての病気は「気」が滞ることによりなるという説で、画期的な病因論として日本の医学史に刻まれています。

・独学で一家を成す
後藤艮山の名は達、字は有成、艮山はその号です。交通網が発達し、さまざまな庶民文化が開花した江戸時代初期の1659年に艮山は生まれました。曾祖父後藤光有は豊臣秀吉に仕えて貨幣の鋳造にかかわりましたが病気のために退居し、祖父は士官することなくこの世を去りました。艮山の父光長は若い頃に江戸へ移り精励して成功を収めました。長男の艮山は幼少期より聡明で学問を好み、林大学頭の門に入って経書を、牧村ト壽について医学を学びました。
当時、江戸ではたびたび火災が発生していて、常盤橋に住居があった後藤家も10年間に7回被害にあい、家財を失った光長は京都への移住を決断しました。京都での貧しい暮らしの中、艮山は出世への意欲を燃やします。まず儒学を目指しますが、古方派を起こした伊藤仁斎を凌ぐことはできないと断念。次に僧侶に目を向けますが、黄檗宗(おうばくしゅう)(禅宗の一派)をたてていた隠元には及ばない。そこで胃の世界なら成功することができるだろうと、当時名を成していた名古屋玄以の門をたたきました。しかし、束脩(先生に持参する贈り物)が少なかったため入門を断られ、その憤懣を勉学にぶつけ独学奮励して見識を深めていったといわれています。
京都で開業するうち、艮山の名が広まっていき、32歳で結婚、4男3女を得て、順風満帆、出世の道を切り開いていきました。

・「一気留滞説」を唱道
艮山の唱えた「一気留滞説」ではまず「気」の概念を理解しなければなりません。気とは自然界や人体を満たすエネルギーのようなもので、自然の運動はすべて気に基づいていて、気が滑らかに循環しているとき人は健康を保っているが、気が寒さや飲食の不摂生などによって滞ると病気になり、気の運動を回復させることが治療の要諦となる、という考え方です。
病気の治療の基本となる順気(気を巡らせること)を行うために艮山は灸を施し、熊胆、番椒(唐辛子)を服用させ、温泉に浸かることを積極的に取り入れましたので、世人は彼のことを「湯熊灸庵」と呼びました。それでも気滞が生じている場合、艮山は茯苓、半夏、枳実、厚朴、生姜、甘草から構成される「順気剤」という方剤を用いました。
また、艮山の精神は身なりにも表れていました。従来の医家は髪をそり、僧衣をまとっていましたが、彼はこれに抵抗。袈裟(けさ)ではなく紋付袴を着て、髪を束ねて過ごしました。そのスタイルは彼の門人だけでなく一般の医師にも広がり、医業が仏教から独立していく契機となりました。
艮山は「学説は日々変化するもの」として著述を避けたといわれ、「師説筆記」や「熊胆蕃椒灸説」「病因考」「医教」などは門人によって書かれました。門下は200人を超え、香川修庵、山脇東洋、山村重高らの偉材を輩出しています。 享年74歳でした。

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