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漢方の復興にささげた生涯  和田啓十郎

漢方の復興にささげた生涯  和田啓十郎
明治維新は日本に未曽有の転換をもたらしました。あらゆるものが西欧化の波にのまれ、医学においても、それまで主流だった漢方医学が否定され、ドイツ医学(西洋医学)が明治政府の公認とされたのです。西洋医学一辺倒となった医学界に一石を投じたのが和田啓十郎でした。
学問への思いやみがたく
和田啓十郎は明治5(1872)年に長野県長野市の南東部、現在の松代町牧島で生まれました。松代は川中島の戦の舞台であり、真田10万石の城下町でもあります。父は旧松代瀋士で、啓十郎は二男五女の次男。彼が生まれた当時は相当な豪農だったといいますが、姉の病気に伴う治療費など経済的な苦労もあったのでしょう、村の小学校を卒業した彼は数里離れた町の呉服商に丁稚奉公に出されました。2年後、実家へ戻った啓十郎は「商人は不向きなので、学問で身を立てたい」と訴え、松本中学に入学します。
 生徒は全員寄宿生活で、当時、中学以上の高等教育を受ける子どもは珍しく、明治24(1891)年、彼とともに卒業したのは14人でした。この時19歳。人生について悩む多感な年代で、キリスト教に接近したり、禅僧について托鉢したりして1年が過ぎ、医学の道へ進むことを決心します。今度は、東京へ出て医学を学びたいと告げました。16歳年の離れた兄は、よく家族の面倒を見ていて、第の才能を伸ばしてやろうと骨を折ったようです。
明治の医界に鉄椎(てっつい)を下す
維新後、医師の資格を得るためには西洋医学を修める必要がありました。和田啓十郎が上京して入学した済生学舎は、明治8(1875)年に長谷川泰により創設された医師開業免状取得のための私立の医師養成機関です。彼は明治25年10月に入学し、明治29年5月には医師開業免状を取得しています。通常4、5年かかるところを3年余りで取得しました。
済生学舎で西洋医学を学ぶ一方、彼は無名の漢方医・多田民之助の門弟となって同居を始めます。多田は鷹揚な性格で窮乏生活も気楽にやり過ごすような人物だったようで、苦学生啓十郎も精神的に助けられたことでしょう。ここで彼は治療のノウハウ、心構えなどを学びました。
彼が漢方を志した動機は、少年時代に何人もの高名な医師が治せなかった姉の難病を、弊衣蓬髪の漢方医が治すのを目の当たりにしたことが挙げられます。また、上京後、吉益東洞の『医事或問(いじわくもん)』に感動したことも、漢方をライフワークにする決意の後押しになりました。
和田啓十郎45年の短い生涯でしたが、後世に残した最大の功積は『医界之鉄椎』を発刊したことです。この男ましいタイトルが示すように、明治になって漢方が科学的普遍性に欠ける個人治療だけに終始すると排撃されたことに対して、漢方の優秀性を世に広めようと企図した渾身の作です。
しかし、出版を引き受けてくれるところがなく、多くの私費を投じて明治43(1910)年に出版されました。この著書は大変な反響を呼び、大正4(1915)年には増補二版が自費出版されました。
その『医界之鉄椎』に感銘を受け、彼に入門を願い出た医師に湯本求真がいます。大正5(1916)年に彼が亡くなった後は、湯本求真がその意志を継いで漢方医学の復興に力を尽くしました。

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