疫病治療の改革者
葉天士(ようてんし)
中国清朝は、数十年のずれはありますが、その期間はほぼ日本の江戸時代にあたり、約270年間中国全士を支配していました。第四代皇帝・康熙帝は中国を統一して清朝の礎を築き、政治、経済、文化を安定、発展させたことから中国史上届指の名君といわれています。しかし、明代から猛威をふるっていた急性伝染病は清代にも猖獗(しょうけつ)を極めていて、清代初期から200年余りの間に80回を超える疫病が発生、蔓延したと伝えられています。この病の流行をいかに抑え、治療するかが当時の医家たちにとって喫緊の課題となっていました。康熙帝の治世、1667年に生まれ、幼少期から医学を学び、後に疫病治療に大きな変革をもたらしたのが葉天士です。
謙虚な姿勢で学識を積む
葉天士は清代初期、江蘇省呉県で生まれました。代々医家の家系で、祖父も父も有名な医師でした。彼は聡明で幼い時から師に就いて経典を学び、父からは医学を教わり、多くの古典に接しています。14歳の時に父が亡くなると生活が窮乏し、若くして医術で生計を立てることを余儀なくされました。一方で、父の門弟に医学を学び続け、やがてその知識は師を超え、20歳ですでに葉天士の名は広く知られるようになりました。
彼は名声に甘んじることなく、名医の名を耳にすると、遠方であっても赴き、謙虚に教えを乞いました。そのようなエピソードがいくつか残されています。
以前、彼が助からないと判断した重病人が1年後も元気に生きていることを知り、その治療をした老僧のもとに修行に出ました。葉天士は名を伏せて見習いから修行に励み、数年後、彼が修行を終えたとみた老僧は「有名な葉天士の域を超えた」と言いました。その時、初めて自身が葉天士であると告げ、老僧が感動したという話が伝えられています。
また、葉天士と同じ江蘇省の人で14歳年下の薛雪(せつせつ)も名医と称されていて、葉天士とはライバルとして反目しあっていました。
ある時、葉天士の母が病に臥し、葉天士が治療にあたりますが、彼の処方では効果が現れません。これを知った薛雪はある処方をすすめ、それを試すと母の病が癒えたので、葉天士が素直に感謝の意を表すと薛雪も誠意をもって応え、二人のわだかまりは解け、以後、親密になりました。
年齢、職業に関係なく、優れた能力の持ち主であれば師と仰ぎ、その技を習得するという謙虚な姿勢が彼を類まれなる名医へ成長させたといえます。
温病学(うんびょうがく)の発展に寄与
清代の頃には、寒邪を病因とする「傷寒」の治療法では治せない疫病があることが認識され、それらは温邪を病因とする「温病」だと考えられるようになっていました。天士はそれを治療するための「温病学」をさらに発展させ、温病の発生、進行のパターンを「衛・気・営・血」という4段階に分けて診断・治療する方法を考え出しました。この方法は、病の進行を段階に分ける点は「傷寒」の治療と類似しているものの、その治療法は大きく異なっています。
葉天士は「天に才能を与えられ、多くの書を読み、術をなせば世を救うことができる。そうでなければ、薬が刀のように人を殺すこととなる」と残し、子孫を戒めたと伝えられています。中国医学界に多大な貢献をなした80年の生涯でした。