尾張瀋医、本草学の泰汁 浅井貞庵
徳川家康直系の尾張、紀伊、水戸の御三家は、将軍の世継ぎを出す資格を有し、幕府の中でも特別の待遇を受けていました。中でも尾張藩は江戸幕府にとって西の要衝であり、東海道ににらみを利かす雄藩でもありました。天明・寛政の時代、1781年から1801年の20年間は、尾張の藩政上、重要な改革が断行された期間で、殖産興業の促進、綿布役銀の創設、藩札の発行など財政難の克服を目指したり、武士、庶民を問わず聴講を許した藩校明倫堂(めいりんどう)が開設されたりしました。この改革期に、尾張で代々医を勤めていた浅井家に生まれ、医学、本草学の普及に精力的に取り組んだ浅井貞庵が前半生を送っています。
医学館を開設
浅井貞庵が生まれたのは江戸中期の1770年。幼い頃から頭脳明晰、神童と呼ばれ、祖母はその聡明さゆえ夭折しないかと憂え神社に祈願していたといいます。貞庵は8歳で両親を亡くし、伯父・南溟に養われましたが南溟も12歳のときに世を去り、本草学に通じていた祖父・図南もその翌年に亡くなりました。この後図南の門人、村上見善らの教えを受け、京都へ出てさらに7年間、医学の研鑽を経て帰郷しました。
1789年、20才のときすでに自邸内に家塾を開き、藩医の子弟の教育を始めています。1799年、医師取締試業の統督となり、藩から医学館の創設を命じられ、藩費で邸内に講堂「静観堂」講舎を新築しました。「尾張医学館」は貞庵の子、紫山が貞庵の死後、静観堂を改称したものです。
3000人以上の門人
図南の影響もあったのか、本草学についてはシーボルトをも驚嘆させたといわれるほど造詣が深く、医学館でも積極的に講じていました。「薬性歌括」は「万病回春」を編纂した明の龔廷賢(きょうていけん)の書で、薬性と薬用の要点を覚えやすいように四韻詩の形式にまとめたもので、貞庵はこれをテキストに講義を行い、その講義録は「薬性歌解」として残されています。また、治療についても貞庵は学識が高く、その講述を息子・紫山が筆記し、孫・樺園が補考した「方彙口訣」が有名です。貞庵は、李時珍(りじちん)の体系的な本草学を別格として扱う一方、薬性について詳しい人物として張元素(ちょうげんそ)、続いて李東垣(りとうえん)、王好古(おうこうこ)などを挙げています。特に東垣や好古については「是等の人はその薬の本然の訳を知れり」とするなど、金元時代の薬性論を高く評価しています。また、実用的な医療のための本草学を重視し、実際に必要な薬種の数は200~300種で足りるともしています。
尾張藩の薬園は江戸時代初期から設置され、「御深井(おふけ)御薬園」には1652年、将軍から拝領した39種の薬用植物が植えられていました。この後1735年には朝鮮人参7本の栽培から始まった「御下屋敷(おしたやしき)御薬園」も設置され、6800坪という広大な敷地を有していて、1805年には貞庵がここの薬園奉行として経営を任せられます。
性格温順にして度量あり、博学多識、「凡百の技芸通ぜざる所なし」と評された貞庵の第子には「古訓医伝」を著した宇津木昆台をはじめ、3000人以上の門下生がいました。古医書の発掘、紹介に努め、多くの者書を残しています。(小太郎漢方新聞)