金元医学の集大成者 朱丹渓
中国大陸を席巻したフビライは元を建国した当初、日本にも二度来襲。台風に遭遇して退散しましたが、中国を中心に強大な勢力を誇りました。約100年続いた元とその前の金は、中国医学が大いに発展した時代でもありました。この時代の著名な医家、劉完素(りゅうかんそ)、張従正(ちょうじゅうせい)、季東垣(りとうえん)、朱丹渓(しゅたんけい)が金元四大家と呼ばれています。元時代初期に生まれ、金元医学の集大成者といわれているのが朱丹渓で、陽(熱)の過剰を抑制するために陰(潤い)を補うことを重視、「養陰派」や「滋陰派」と称されました。
良師から儒学と医学を学ぶ
朱丹渓は名を震亨(しんこう)、子は彦修(えんしゅう)、丹渓と号しました。号の丹渓は赤い谷川という意で、住居のそばに流れていた渓流の名に由来します。朱丹渓が生まれた新江省義鳥市は上海の西南300キロに位置する亜熱帯地域です。出身は代々医があるいは農家だともいわれ、特定されていません。幼児期に父を亡くし、その後、弟や伯父、叔父も失っています。
幼い頃から頭脳明晰で経学(儒学)を学び、官吏を目指して受験勉強に励んでいましたが、30才の時、母が腹痛を患い幾人もの医者の診断を受けても治癒せず、朱丹渓自ら医書を漁り、母の病を治しました。このとき初めて「素問」に接し、「簡単な言葉の中に深い道理がある」と感銘を受けました。
36才の時、地元の著名な朱子学者、許謙(きょけん)に就いて儒学を子んでいましたが、病に陥った師が朱丹渓を呼び、医学の道へ進むよう助言しました。朱丹渓は幾人もの親族を良医に恵まれずに亡くしたことに心を痛めていたこともあり、科挙の受験を断念して医道に尊心することを決断しました。
「和剤局方」流の医学が主流を占めていた時代、朱丹渓もそれに倣って勉学に励んでいましたが、やがて、その古い処方では今の病に対応できないと判断し、「素問」「難経」を理解するため師を求めて各地を巡りました。杭州で名医として知られていた劉完素の孫弟子・羅知悌(らちてい)の門をたたき本格的な医学の道へと始動します。時に朱丹渓44歳。遅いスタートでした。
陰を養って陽を抑える
羅知悌から学ぶこと数年を経て朱丹渓は帰郷しますが、彼の医論は主流から外れていて相手にされません。前師の許謙は未だ病に臥していて、朱丹渓はその久病を治療して頭角を現し、彼の名は数年後、浙江省一帯に広まっていきました。四方から患者が押し掛けるようになり、風雨の中でも往診を断らず、貧しいものには無償で薬を与えたといわれ、生活は粗衣粗食で過ごしています。
朱丹渓の医論の核にあるのは「陽有余陰不足」で、病は陰(潤い)の不足により病的な熱が生じて起こるとし、滋陰降火の治方を説き、陰を養い陽(熱)を抑制することが基本原則であると主張しました。
朱丹渓の著作は金元四大家の中でも最多で20数種に及んでいますが、最晩年になってから著述を始めていますので、多くは自著ではなく、弟子や末裔の手になるといわれています。代表作としては独創的、画期的な医論書で治験例も記した「格知余論」、臨床に則した医論集で、滋陰降火の具体的運用法を解説した「局方発揮」、さまざまな書物をまとめたもので、曲直瀬道三がよく利用した「朱丹渓法」などがあります。
日本の室町時代以降の医学にも大きな影響を及ぼした朱丹渓は1358年、78才で亡くなりました。
(小太郎漢方新聞)