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世界初の全身麻酔手術に成功 華岡青洲

世界初の全身麻酔手術に成功 華岡青洲

19世紀初頭、和歌山市から東へ約20キロ、紀ノ川沿いにある平山という小さな村には、全国から多くの人が集まっていました。世界に先駆けて全身麻酔による外科手術を成功させた名医・華岡青洲の名声を聞いてやってきた医家や患者たちでした。彼の業績は世界の医学史にも刻まれ、その生涯は小説や映画にもなるなど広く知られています。また、化膿性疾患の初期に使われる十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)や、漢方の外用薬である紫雲育(しうんこう)などは青洲が創案した処方で、今も繁用されています。

麻酔薬の裏に凄絶なるドラマ
華岡家の祖先は楠木正成の一族といわれ、青洲は山里の村で4代続いていた医家の長男として1760年に生まれました。青洲の父はオランダ流外科や内科もこなし、青洲も父から医術を学んでいましたが、田舎によき師友もなく、23歳の時に京都へ修行に出ます。
当時の日本の医学界は躍動していました。長崎ではオランダ人が蘭学を伝え、青洲の生まれる6年前には山脇東洋が人体解剖を行い、青洲15歳の時には杉田玄白らが「解体新書」を出版していました。知識人が集まり最先端の学問にふれられる京都で青洲もまた高揚していたことでしょう。
青洲の学費は2人の妹が機織りで得た収入で賄われていて、一家の期待を背負っていました。京都で彼が兄事した師友は青洲について「立志の鋭きこと、寒暑を避けず、体貌を飾らず、学を好み、欣然として食を忘れる」と質素に勉学に励んでいた様子を伝えています。
彼は麻沸湯という麻酔薬を使って外科手術を行った古代中国の名医・華佗を目標としていて、麻酔薬開発に情熱を注ぎました。チョウセンアサ(曼陀羅華(まんだらげ))を中心とした麻酔薬を考えていたようですが、毒性が強いため、京都から帰郷してからは、その毒性を抑える薬草を探し、患者の診療のかたわら試行錯誤を繰り返します。そして犬や猫を使った動物実験で目処が立つようになり、改良を加えて自信を得ました。さらに義母や妻など親族が進んで被験者となり、犠牲を払いながらもついに薬は実用化の域に達します。友人・中川修亭によると、1796年頃には十数人の有志者に対して全身麻酔状態を作り出すことに成功していたそうです。
1804年、青洲44歳の時、60歳の女性の乳がん患者に対する全身麻酔による乳がん摘出手術に成功。世界初の快挙となりました。その後、乳がんだけでも150例以上の手術を行いました。

名声に驕らず村医者を貫く
青洲の名は当時の紀州候の耳にも届き、再仕官を求められました。青洲は半月は藩医として勤めたものの、半月は故郷での診療に勤しみ、終生在野での診療を怠りませんでした。彼は多くのカルテを残しましたが、著述によって自分の偉業を世に誇ることもありませんでした。
生前の青洲は「わが術は心に得て、手に応ずるもの、口言う能わず、筆書く能わず」と語ったと伝えられています。後世に残された彼の偉業の多くは弟や門人たちの筆録によるものです。門人の一人には本間棗軒(そうけん)がいます。
享年76、多くの門人を育てながら、一介の村医者であり続けた生涯でした。
(小太郎漢方新聞)

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