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後世派の有徳人士 田村(津田)玄仙(たむら、つだ、げんせん)

後世派の有徳人士 田村(津田)玄仙(たむら、つだ、げんせん)

千葉県木更津市の南方、君津市に接する辺りの畑沢にかつて馬籠という地名がありました。江戸時代中期の名医・田村玄仙は江戸で開業し名を上げた後、上総(かずさ)国の馬籠に移り、1809年に72歳で没するまで数々の著書を残しました。彼が残した口訣(くけつ:口伝された治療の秘訣)は今なお多くの治療家にとって重要な指標で、特に補中益気湯の口訣が有名です。

江戸から上総の山里へ
田村玄仙の元の姓は津田で、名を兼詮(かねあさら)、号を積山と称しました。津田氏は代々奥羽磐城(現・福島県)の自河藩医でしたが、玄仙の父・玄琳は致仕して県内の桑折村へ移住しました。玄仙は1737年にその村で生まれました。
玄仙は医業を父から学び、その後水戸へ出て芦田松意という人物に師事し、次いで京都の饗庭道庵(あえばどうあん)の門下に入りました。そうして京都・大阪で長年勉学に励んだ後、江戸で開業しました。その治療が優れていたので、多くの患者が訪れ、彼の医術を学ぼうと入門を希望した者も後を絶ちませんでした。このまま江戸で医療を続けていれば、名声はなお一層高まっていたと思われますが、37歳の頃に上総国の馬籠へ移ってしまいます。
その理由については、江戸市中の雑踏を嫌い、閑寂の境を求めた、あるいは著作に集中するためだったなどさまざまな憶測がありますが、馬籠の医家、田村恕仙が饗庭道庵の同門だったので、その彼の招きに応じたとも考えられます(後に玄仙は恕仙の養嗣子となっています)。
恕仙は玄仙より年長で、江戸で医学を学び、上総で開業していました。恕仙の医業は評判が高く、多数の患者や門人がいたようですが、後継者を亡くしたために近隣で医業の盛名を馳せていた玄仙に孫娘を嫁がせました。その数年後、怒仙は79歳で亡くなり、その業は玄仙が引き継ぎました。玄仙が津田から田村に改姓したのは、怒仙が亡くなって10年ほど後のことでした。呉秀三氏は、玄仙は義理堅い人物で、恕仙が亡くなった後も楽を引き継いでいた関係上、田村家の養嗣子になったのだろうと推察されています。

人望を集め、教えを広める
玄仙は立派な体格だったようです。声もよく通り、威厳がありましたが性格は温厚。外見は飾りませんでしたが常に威儀を正していたので、周囲の人から尊崇を集めていました。
白河候に厚遇で招かれた際に「野原に放っておいてもらった方が幸福です」と固辞したという話は、地位や金銭に拘泥しない彼の人徳を表しています。
また、彼は原南陽、和田東郭などの名医らと書簡を交わして医学の研鑽に励み、門下生の教育にも熱心に取り組んだことが知られています。
後世派の医学を修めた彼は、多くの著書を残しています。「療治茶談」は日常の診療に役立つ口訣を集めたもので、板行まで12年かかっています。「療治経験筆記」も口訣集で、そこに記された補中益気湯の口訣がとても有名です。「勧学治体」は医学教育の指南書です。玄仙は初学者教育のための医学校建設を熱望していたものの、叶いませんでした。しかし、その教えは後世への貴重な遺産となっています。
(小太郎漢方新聞)

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